メディア紹介

ご挨拶

館長古くて暗い生家から出てきた引札(ヒキフダ)は、ほこりまみれのガラクタにまじって無造作におかれていた。だが、虫食いなどの傷みは激しいものの凛としてその存在をアピ-ルしていた。いや、私にそう見えただけかも知れない。
引札には、あて字が多く使われており、意味がわからず苦労した。とんちを働かせ、知人の協力も得て、解読、理解したものも多い。苦労の末、意味がわかるとうれしいもので、その一枚の引札は勿論、引札そのものへの思い入れも強くなっていく。なお、本文には引札の中で使われた文字を尊重した。従って、意味が通じなかったり、少々おかしなものもあるが、ご了承いただきたい。

当コレクションは、明治三十年代のものが大半を占めており、琴平、丸亀の当時の生き生きとした街並みの発展がうかがえると思う。還暦を迎えるにあたり、素人の門外漢の手探り仕事として恥じをも顧みず、先祖の供養にもなり、資料の散逸を防ぐためにもコレクションの中で楽しく興味深い引札を中心に公開することにした。よって、間違いや整理の仕方に問題がある点も多いと思われる。今後の指針にしたいので、どしどし御批判を仰ぎたい。
引札に関心を寄せ、引札を愛する方々に広く見ていただければ、感慨深く、本当に嬉しい。感謝の気持ちで一杯である。

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讃岐の引札

※現在、拙著「讃岐の引札 藤井コレクション」については書店ではお買い求めできません。詳しくはお問い合わせください。

引札とは

引札は、江戸時代から大正にかけて商品や商店の宣伝のために正月用として特にめでたい図柄(七福神、日の出、富士山、松竹梅、鶴亀)のものを年末年始に配っていたようである。その中でも多色刷りに人気があった。今でも会社などがカレンダ-を配っているのはこの流れであり、広告のル-ツとなっている。内容は、宣伝効果を一層高めるために有名な絵師や戯作者に頼んで版木を作り、豪華な多色刷りの横に自分の店の広告を入れるというものである。

発行の中心地は大阪であったようで、印刷、版権所有者は大半が大阪である。大阪の版元、発行所は版を共同で用い、注文に応じて商品や商店名を余白に刷り込んでいた。急いだ場合又は経費節約の為か商店主が余白に自分で商店名を書き込んだと思われるものもある。

引札は無料ではあるが、顧客に人気があったことがうかがえる資料も残っている。明治四十一年五月の「藤澤樟脳規定御披露」には高等引札添付規定があり、「藤澤樟脳五缶に付高等引札弐拾五枚、拾缶に付六拾枚、拾缶以上には五缶増す毎に参拾枚宛添付する。」とある。これは小売店に販売促進用品として顧客に配布してもらい、売上増加を狙ったものである。当時の人々の生活の中で極彩色のビジュアルなものは珍しかったに相違ない。だからこそ販売促進用品として使えたし、収集保存した人もいたのだろう。

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引札の歴史

今日私たちは、毎日のようにポストに投函される新聞の折込み、雑誌、本といった印刷物、さらにはテレビなどメディアを媒体とした宣伝広告など、いわば情報化社会のなかで生活をしている。現代人はその過剰とも思われる情報を取捨選択し、多くは一過性のものとして無造作に廃棄している。 しかし、情報が少なかった時代において、広告は今よりもっと庶民の生活に結びつき溶け込んでいたであろう。こうした状況を踏まえて引札の変遷をたどることにする。 引札は今で言うチラシ広告であり、天和3年(1683年)三井越後屋が開店に際して「呉服物現金安売無掛値」をキャッチフレ-ズに江戸で配布したのがはじまりと言われている。当時越後屋では引札のことを「配札」、「賦札」の字を当当てて、「くばりふだ」と読ませていた。 宝暦年間(1751年~1763年)になると、引札配りが職業となり文化文政期には、江戸大坂を中心に引札が本格的に盛行するようになる。こうした背景には、商業資本が興隆し、庶民が消費者としての購買力を持ちはじめたことが上げられる。 江戸時代を通して主な広告主は、今日の百貨店の始祖である呉服屋をはじめ、薬屋、宿屋、料亭などであった。 明治期に入り、新聞広告が新たな広告媒体として出現した。それでも明治15年くらいまでは、大方の企業は引札を利用していた。しかし以後新聞が興隆し、発行部数を伸ばしはじめると、大手の企業は新聞広告を利用するようになった。そして、地元の客を相手とする地方の商店は、これまでと変わらず引札を利用するといったように、引札と新聞広告との並行利用が一般化する。 大正期には、引札は新聞の折り込みとして大量に配布されるようになり、「チラシ引札」とか単に「チラシ」と呼ばれるようになる。明治末期から盛んになった新聞紙上での広告、ポスタ-の出現など広告の媒体が多様化し、印刷物の量も膨大になる。こうして引札は、江戸時代から続いた役割を失っていき、風格ある手刷りは姿を消して行く。

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引札の形態

引札の形態は、時代と共に様々に変化する。はじめは文字だけの墨刷りで、コピ-も短くストレ-トな表現であった。享保年間(1716年から1735年)以降になると、コピ-も長く饒舌になる。そして、引札の文句も著名な文化人の執筆による自由で、洒落心のあるものが現れる。平賀源内、滝沢馬琴、山東京伝、式亭三馬などが有名である。 さらに時代が下ると、上端を赤く彩色した天絵馬、文字だけでなく挿絵の入ったもの、歌舞伎役者を起用したもの、木版多色刷り錦絵広告など多彩でより工夫されていく。 明治になると。「正月用引札」といって、年末年始に商店が広告を兼ねたサ-ビス品として、顧客に配布する引札が現れる。この引札は、東京、大阪だけでなく地方の商店が大量に利用したので、全国に広く普及した。 はじめ正月用引札は、錦絵広告を継承したものであったが、明治30年代になると石版多色刷りに移行する。石版刷りの特徴は、手書きのような滑らかな線描写が可能で、何より色彩が豊かであるため、視覚に訴える要素を最重視したところにある。そのため「絵びら」とか、「広告絵」とも呼称された。一般家庭では年末になると、配布された新しい引札が壁や障子に貼り付けられ鑑賞用として親しまれていたようだ。 正月用引札は、一軒の店で単独でつくることもあったが、大半は一つの版を共同で使用していた。版元は予め絵だけの見本を作製し、歳末になるとその見本を持って各商店を廻り注文を取り、商店は店や商品の名前を刷ってもらう方法をとっていた。版元は大阪が圧倒的に多く、中でも「古島竹次郎」、「中井徳次郎」の両店は、大阪発の引札を全国に広め、引札の黄金時代を築き上げた。今回展示の引札にもこの両店が版元であるものが見られる。 また大阪版元の印の横に「団扇摺物製造所」と記されているものがある。版元から見本を仕入れて、うちわ摺物のかたわら引札の印刷を行っていたようである。

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発見場所とその経緯

本サイトに掲載している引札その他資料すべては、香川県仲多度郡満濃町四條(元四條村)の私の生家より発見されたものである。

満濃町は、空海が築池使別当として来讃し、修築した灌漑用溜め池としては日本一の満濃池に由来している。満濃町は「こんぴらさん」で有名な琴平町の東に隣接しており、旧高松琴平街道(金毘羅街道、現在の国道32号線の北側)の琴平町への入り口にもあたる。近くを流れる土器川は、香川県内唯一の一級河川であり、「こんぴらさん」をめざした参拝者達が、この流れで身を清めたため「祓川」の別称で呼ばれている。ここからは「こんぴらさん」の本殿が象頭山中腹の正面に見え、交通の要所として栄え商家の街並みもあった。現在当時の商家として残っているのは、一軒のみとなっている。

生家は曾祖父の父の時代より種々商売を変えながら現在に至っている。現在も事情あって私が四代目の煙草小売り人[明治十六年の煙草小売人許可書が見つかっている。]である。明治初期に建てられた生家は約百二十年経過し、傷みも激しくなったので四年前に取り壊した。その時、明治から昭和に至る商売の道具(菓子製造の時に使う木型、はかり、そろばん、銭箱)、看板(木製、ブリキ製)、のぼり、のれんなどと一緒に当コレクションの暦、引札、版画(高価なものではなく庶民に人気があったもの)も見つかった。それらは約八十年間、人目に触れず眠っていたわけである。

これらが見つかった時、なにせ古い民家の納屋に無造作に放置されていたために傷みもひどく判読もままならないものもあった。古美術保存の専門家に依頼し、水洗い、裏打ち、添え木をして修復したところレトロな色彩がよみがえった。

しかしそれよりも、先祖がよくも、単なるチラシ広告や、その年が終われば用済みの暦等を大事に保存していたものだと感心した。現在では当時の風俗習慣等を知る貴重な資料として、大事に子孫に引き継ぐ責任を感じている。

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引札を収集保存した人

私の曾祖父が藤井金平である。金平は四條村の村会議員で事業欲旺盛な人であった。藤井商店の屋号は「濱屋」である。風呂屋も金平の実父清吉と経営したが、短期間でやめて元からの事業に専念したようだ。いずれにしても真面目に生きた人だと思う。

引札・暦には興味があったらしく、当コレクションの大部分は、金平が商売の関係から入手したものを保存していたものと思われる。

現在、当時の商家が一軒残っているが、その経営者は著者の遠縁にあたる藤井源次郎で店名も同じく藤井商店で屋号もひらがなで「はまや」であった。源次郎は明治二十五年の香川県名誉録に名を連ねている高額納税者であった。

なお、明治四十四年の香川県所得納税者人名簿(納税額十円以上)に藤井金平は納税額二十七円四十参銭で、四條村の納税額順位では三十三人中十五位であった。

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所蔵引札の地域別分類

地域別に見ると一番多いのが、丸亀関係八十八枚で約三割を占めている。この地域のものは、製造卸商がほとんどである。丸亀と琴平間は、渡海屋の荷馬車が荷物を集配していた。現在の宅配便(コ-スは定まっていた)のようなものである。「広辞苑」によると「渡海」とは、瀬戸内海で、人や荷物を運ぶ船の称とあり、「渡海屋」は航海を家業ととしているもの(航海業者)とある。次に多いのは、琴平、満濃関係六十枚(引札五十二枚、暦八枚)で、大部分が地元の小売商のものである。三番目は高松関係の十六枚でこの地域のものも製造卸商が多い。

高松市は満濃町より約三十キロメ-トル北東にあり、汽車、電車が開通するまでは、旧高松琴平街道を徒歩で仕入れに行くと、日帰りはできなかった。そのため高松に定宿(現在のビジネスホテル)を決めていたと思われる。その定宿の引札がある。商用や公用で旅する人は、だいたい泊る宿屋を決めていたようである。それが定宿であって、泊る客も泊める宿屋も安心できる。それだけに宿屋と客の間との関係は深く、家族ぐるみの交際をしている例もあったぐらいである。宿屋はこれら固定客を大切にしていた。そういう宿屋のなかには、正月になると、新年の挨拶やその年の暦を刷り込んだ引札を客に配っていたところもあったようだ。これらを正月用引札と呼んでいるが、引札というよりも、引札を兼ねたサ-ビス目的の刷りものであったようだ。この他伊予三島から紙類、滋賀・徳島・富山から薬、大阪から革製品等を仕入れていたことがわかる。

この地区別分類から、讃岐では主として丸亀、高松より商品を仕入れ、地元の琴平、満濃では、日常の生活用品を購入していたようで、当時の経済圏、商業圏の一端がうかがえる。

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引札広告の対象商品

引札の中に書かれている商品は、清酒、醤油、酢、菓子、呉服、反物、荒物、各種油、砂糖、石油、履物、筆、小間物、掛物(乾菓子に砂糖を引いたもの)、紙、化粧品、薬、乾物、ろうそく、びん附、粕肥料、飴、度量衡、墨、袋物、嫁入小袖、文房具、青もの、鰹節、たび等多種にわたる。また、商品の中には現在は殆ど無くなっているものや、現在使っていても非常に特殊なものとなっているものもある。例えば八つ折り(履物の一種)、麻裏(これも履物の一種)、下駄、煙草入れ、かもじ(婦人の髪に添え加える髪)、まげ(髪を束ねて結ったもの)、ねごま(婦人の添え髪)、麦稈(むぎわら)、鬢附、太物(絹織物を呉服というのに対し、綿織物、麻織物を総称した語、当時庶民には呉服は高価なもので、太物が安価であった。普段は太物で縫った衣類をきていた。)、薪炭(たきぎとすみ)、金米糖等である。

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引札広告を利用した業種

当コレクションでは特に多い業種は見当たらないが、中では薬関係、酒、酢、醤油、菓子関係、履物関係が比較的多い。

取扱い商品の組合わせが、現在では考えられないような、おもしろいものもある。例えば、美術石、活版彫刻印刷や無害食料紅製造と全国諸新聞販売との組合わせ和漢洋薬、洋酒、絵具、染草諸紙や金銀箔、うるし、正種油、石油との組合わせ

また現在のス-パ-マ-ケットのような「何でも屋」がまさに内外よろず一式を扱って、村民の消費生活を支えていたようである。例えば、荒物、塗物、襖(ふすま)ふち、水車絹、細工ちりめん、煙草入れ、きせる、三味線糸、石灰、布の里、豊島石、井筒(木や石でつくった井戸の地上の囲い)、工事用セメント、畳表、七島、八百物、堺屋醤油、靹酢、洋酒類、松葉塩、はかり、ます、さし、、膳椀塗物、嫁入道具一切、筆、墨絨、学校用品、石油、正種油、八百物類、荒物日用品等である。

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引札の図柄

図柄別に見ると一番多いのは、女性の姿(貴婦人、若い女性、母と娘)で、次にえびす、大黒、店頭風景、乗り物(汽車、汽船、飛行機、自動車、電車、自転車、人力車)、歴史上の人物(小野道風、牛若丸など)、戦争(日清・日露戦争)、相撲、歌舞伎、動物(鶴、亀、トラ、竜、犬、猫)、魚(鯛)等である。なお、バックには日の出、富士山、松竹梅、鷹が多く描かれている。

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